こだわりの時計を造る―オリジナル文字盤製作記
人にはそれぞれ好みや理想といったものがあります。
既製品でそれが満足されない時、妥協して我慢するか、理想に近づけるべく手を入れていくか、それとも理想の品を一から作り上げるか――。
これはそうした、理想を探求する飽くなき挑戦のひとコマです。
Concept ―― 理想に近づくための「あと一歩」
アメリカ鉄道時計は、その造り、仕上げの良さからくる実用性が大きな魅力ですが、実用品であるが故に物足りなく感じてしまう部分がないわけでもありません。
その一つが、この文字盤です。手描きの陶製ダイヤルなどはそれでも十分に手間がかかっており、様々なバリエーションを持ってはいるものの、鉄道時計の要件として規定されている「大きなアラビア数字のダイヤル」という枠を超えることはありません。僅かに民生向けにスピンアウトしたモデルにローマ数字やファンシーダイヤルがありますが、こちらは逆に機械の仕様の点で、鉄道時計に一歩を譲ることがあります。この両者が並び立ち、しかも状態のよい個体となると、見つけるには相応の苦労や出費を伴うことになります。
機械の造りを見て納得し、一つ手に入れてみようと思った私の知人もそんなジレンマに悩んだ一人。「文字盤はローマ数字がいい!」と。しかし、予算に見合う造りの良い機械はやはり鉄道時計。これに匹敵するスイス製の機械や、オールドハワードでは完全に予算オーバー。
「では文字盤を作ればいい」
…かくてこの一言から、全ては始まったわけです。
Available Option ―― 出来ることと出来ないこと
アンティーク懐中時計に合う文字盤を作ることが出来るのか?
出来る 出来るのだ
吉祥寺に店を構えるアンティークショップ兼時計修理工房マサズ・パスタイムさんが、それを実現しています。
0サイズと呼ばれる小型懐中時計のムーブメントを使い、腕時計を作る――。このお店では、そのために腕時計用ケースを設計し、金型まで起こしてそれを実現しました。それだけでなく、ムーブメントのタガネ彫りによる装飾やネジの青焼き、フリースプラング化、そしてオリジナルの文字盤の製作といったカスタマイズまでもこなします。
そう、オリジナル文字盤。ここでは、銀や赤銅黒染を使った手彫りの文字盤を造ることができるのです。0サイズ用とはいえ、懐中時計用の文字盤には違いない。ならば16サイズの文字盤だって造れるはずだ。まあ、理屈は確かにそうなのですが。
古今例のないこの試みに、スタッフの皆さんは「面白そうだ」と応じて下さり、ここにオリジナル文字盤作成計画がスタートしたわけです。この記事作成にあたっては、多大なるご協力を頂きました。この場を借りて感謝いたします。
この記事が宣伝になって多少なりとも恩返しになることを祈ります。
さて、オリジナル文字盤とはいえ、何でも出来るというわけではありません。
- エナメル色(文字色)は黒地なら白、白地なら黒
- インデックスは原則的にローマ数字[2005/12/17追記]アラビア数字も可能になったそうです。
- 文字を入れる場合、字体は活字体に限る(筆記体は困難)
この制限は、金属板をタガネで彫り、そこにエナメルを入れるという製法に理由があります。かなり深く彫る必要があるため、あまり繊細で細い曲線を入れるのは困難(*1)。物理的には可能でも、時間がかかり過ぎる上に僅かな失敗も許されないため、コストの面で引き合わず現実的ではないそうで。
クライアントからの希望に対して、技術的な可能・不可能と、予算・時間上の現実性のバランスをきちんと取ったオプションを提示すること。その上で定めた方針のもと、自身が納得できる妥協のない仕事をすること。前段階の相談からそうした姿勢を感じ取ることができるのは、見上げたプロフェッショナリズムだと思います。
試作段階で、外注でコンピューター制御によるレーザーマーキングを試したこともあったそうですが、文字のエッジの際立ちや円周の精度などの点で満足のいくものにならず、採用されなかったそうです。厳しい。
Design ―― それは秘密?
現実的な線では、インデックスの他には活字体で銘を入れるくらいが良いところ、というのが見えたところで、デザインを決めていきます。
実際のダイヤルのバランスを参考に、デザインのベースを作ります。今回はローマ数字の標準的なインデックスを作成しました。
PCで扱う色と実際の色合いは厳密には一致しないのであくまでイメージにしかなりませんが、目に見える形で伝えられれば、話がはるかに早くなります。
検討の結果、知人は黒染め文字盤を選択し、これに銘を入れることにしました。
実際にお店のスタッフに相談してみたところ、十分に出来る範囲の内容ということで、デザイン自体はこれで決定。入れられた銘は"Mercury Lampe"。独語またはフランス語で言うところの"Mercury Lamp"すなわち「水銀灯」ですね。
しかし、店長に「…ところで、『水銀灯』という銘に何か思い入れがおありで?」と聞かれてプイス(田丸浩史調)と目を逸らす知人。
そーねー。一体何なんでしょーねー。…なに?「『水銀灯』じゃなくて『水銀燈』だ、訂正しろ?」そういう些細なツッコミが、自分の首を絞めるような気もするんですがねぇ。乳酸菌摂ってる?
Making of Original Dial ―― これぞ職人業
それでは、実際の製作過程を追っていきましょう。今回主にお世話になったのは、このお店で時計機械「以外」の部分を一手に引き受ける専属の彫金師、下川原さんです。小さな工房なのですが、「妥協のない仕事をするために工房内で作業を完結できる体勢を取る」と、時計師だけでなく彫金師も在籍しているのだそうです。
彫金宝飾を行う職人は数あれど、時計の世界にまでその領域を拡げている方はは少ないでしょう。彫金の細工の微小さ云々とは全く別の話で、時計の部品として(特に位置や角度などに)要求される1/10ミリ、1/100ミリといったレベルの精度を実現つつ製作できるところが、他と一味違うところだそうです。
では、実際の製造工程です。
まず、実サイズより一回り大きく作られた、赤銅のブランクを用意します。赤銅とは銅に金を混ぜた合金で、その比率によりいくつか種類がありますが、ここで用意したのは金を5%含むものです。試作してみたところ、黒染めした際の発色が最も美しいということで、この比率を選んだそうです。
厚みは研磨によって薄くなることを考慮して1.3mmほど。手に取るとしっかりした手応えがあります。
文字盤というとデザインにばかり目が行きがちですが、そもそも正確に時刻を表示できなければ本末転倒です。そのため、正確に中心を設定し、これに対して正確な円を描いていくのが原則となります。
まず、全ての中心となる二番真の穴を開け、外径をムーブメントに合わせた実サイズにカットします。この中心を保ちながら、外周・内周の円を旋盤で彫り込んでいきます。
次に、ケガキ線を入れます。後の工程で研磨すれば消えてしまうものですが、彫り込む文字やインデックスの位置決めを補助するガイドラインとなります。通常ここでは、円周を60等分するラインと、ショップ銘のベースラインとなる水平線を入れます。
次に、スモールセコンドの中心となる四番真の穴を開けます。この位置、すなわち時分針の中心と秒針の中心の位置関係は、文字盤の中でも最も精度の要求される部分のひとつです。中心を決めた後、スモールセコンドの外周にあたる円を旋盤で彫り込みます。
通常の工程にはありませんが、今回はスモールセコンドの円周に沿って銘を入れるため、ここでもケガキ線を入れています。スモールセコンドの中心からその円周を60等分する線と、銘のベースラインとなる円弧です。
ここまでの段階で、裏面に取り付ける足の位置を決め、ロウ付けを行っています。
準備が整ったら、実際に文字を彫り込んでいきます。顕微鏡を覗きながらタガネを使って一つ一つ手彫りで彫り進むという、素人からすると気の遠くなるような作業です。当然、間違えてもやり直しはききません。
そんな重圧をものともせず、一週間ほどで文字盤が彫り上がりました。
この辺りから、一気に完成形へと近づいていきます。
彫り込んだ文字に白のエナメル(通常のエナメルよりも遥かに硬いものが選ばれているため、色のバリエーションは少なくなっていますが)を入れ、エナメルごと表層を研磨して仕上げていきます。
研磨後、スモールセコンドを嵌め込む部分をくり貫き、エッジの面取りを行います。このエッジが生み出す立体感が、文字盤の外見を引き締めます(*1)。
研磨仕上げを終えたら、いよいよ黒染めです。
黒染めは、金属の表面を化学的に黒色化することをいいます。赤銅の場合、黒染め液と呼ばれる薬品を高温の状態にしたものに漬け込む(有体に言えば煮込む)ことでこれを行います。
黒染め後、赤銅は見事な烏の濡羽色に仕上がりました。赤銅が烏金(うきん)とも呼ばれる所以です。
最後に、表面を保護するためにクリアラッカーで仕上げます。実はこれが結構曲者で、吹き付け後に埃が乗ってしまい、何度かやり直しをする羽目になったとか。確かに、35mmの0サイズと比べて16サイズの直径は43.18mm。面積比では1.5倍以上となります。その分、埃が落ちる確率は高いといえます。
さて、スモールセコンドも平行して作られています。
こちらの素材は銀板ですが、切り出しから彫り込み、エナメルを入れて研磨するまでの工程は本体と同じです。
特徴的なのは、内周部の梨地仕上げでしょう。単純に「サンドブラスト?」と思われた方もいるかも知れませんが、さにあらず。サンドブラストでは、金属板が歪んで文字盤としては使えなくなってしまうのです。
ではどうするかというと、砂のようなガーネット(*2)の細粒に水を加え、漏斗を使って文字盤の上から何度も繰り返し落とすのです(*3)。もちろん手作業で、気の長い作業となります。
仕上げを終えた文字盤とスモールセコンドを組み合わせ、いよいよ文字盤が完成します。接着するのかと思いきや、何と圧入で組み立てられるそうです。「精度がきちんと出ていれば、圧入だけでビクともしないような組み立てができる」というから、大したものです。
黒染めは、古来から刀の鍔を始めとする工芸品に用いられてきた和の技法です。それが世紀を超えて西洋のアンティーク時計と一体となることに、ちょっとした感慨を覚えるのは私だけでしょうか。
ただ、今回は最初のケースでもあるため、ダブルサンク化は見送られた。
*2.1月の誕生石として知られる宝石だが、サンドペーパーの研磨剤から観賞魚の敷砂、果ては舗装まで、用途は意外と幅広い。
*3.水を加えることで落ちるガーネットに勢いを付けるとともに、埃を立たなくする効果がある。
Assemble ―― ムーブメントの整備と組み立て
一方、文字盤と組み合わされる機械は、担当の時計師さんが分解整備を行っています。
今回登場するムーブメントはハミルトンの996。19石ながらジュエルド・モーターバレルを備える渋い仕様の鉄道時計です。
それでは、実際に文字盤を組み込みます。
この時計の針は青焼きされたスチール針でしたが、文字盤が黒地に変わったため、銀色に磨き上げました。
かくして、アメリカ鉄道時計でありながら、アメリカ時計でも欧州時計でもない独自の味わいを持つ時計がここに完成したわけです。
また、オリジナルの文字盤も保存されており、その気になればいつでもオリジナルの状態に戻せるのもポイントでしょう(針だけは青焼きを入れ直す必要があるでしょうが)。オリジナルをあくまで尊重しつつ、自分のこだわりを活かしながら日常生活の供とする。こんな付き合い方もまた、あっても良いのではないでしょうか。
Extra Stage ―― 画竜点睛
かくして、自らのこだわりを込めた、世界で唯一つの時計を手にした知人。しかし、彼にはまだ何か不満があるようです。曰く、
「銀様は銀色でなければならん!」
つまり、ケースを換えたい、と。銀無垢かホワイトゴールドが良い、と。
私自身、銀時計を愛用しているのでその気持ちは半分解ります。もう半分は聞かなかったことにしていいですか。
かくして、ネットオークションでのケース探しが始まりました。探すのはネットオークションのeBay。Yahooオークションは問題外です(*1)。
まだケースに互換性がある(*2)分、アメリカ懐中時計には救いがあるとはいえ、望むものはそうそう出てきません。ホワイトゴールドの鉄道時計ケースは元々少ない上、そもそも金張りのケース自体、状態のよい物は最近なかなか出てこなくなっているのです。たまに出てきてもあっという間に数百ドル。
そんな中、なんとか見つけ出して手に入れたシルバーケースの時計がこれです。
ムーブメントはウォルサムの7石。どうにも動作が渋く、かなり薄汚れていますが、これはこの際どうでもよろしい。ケースの裏側にはホールマーク。私の持つヴァンガードと同じ、デニソン製イギリス向け銀無垢ケースです。これが使えれば言うことなし、なのですが。
…やはり問題がありました。蓋のちょっとした凹みは無垢であればまだ修正のしようもあるのでいいとして、蓋を開ける時に使うリップがガタガタになり、なんと蓋自体に歪みが生じています。どうも、開閉にドライバーのようなモノを突っ込んで扱っていたようで、これでは折角のケースが台無しです。
見事な時計をを作る才能や資源がある一方で、こういう思慮のない使い方をするアホもいるわけで、アメリカというのはいちいち極端な国です。
さて、これがそもそも修理できるのかどうか?験しに見積もって貰うと、やはりかなりの費用がかかります。蓋の矯正のため一度完全に分解する必要があり、そのためには銀で埋められているヒンジの軸カバーを取り去り、組み立て時には新たに銀で埋め直す必要があるからです。ただ、それでも歪み、抉れた蓋を新品同様の完璧な精度に仕上げられるかまでは保証しかねるとのこと。
一旦保留してみたものの、その後良い出物もなく、たまに手を出しても外ればかり。結局、このケースの修理をお願いすることになりました。
ケースとなれば、文字盤でもお世話になった下川原さんの出番となります。お願いした次の週には仕上がってきましたが、結果は予想を超えて見事でした。抉れた部分は銀を盛り直して復元し、歪んだ蓋もまた肉眼では解らないほどに修正され、ぴたりと閉まるようになっていたのです。いや、いい仕事です。本当に。
こうして、質実剛健なアメリカ鉄道時計が優雅な銀時計に見事変身を遂げました。完成です。
一時はどうなるかと思われたケースも無事修復されました。元々の素性が良かったのでしょうか。ホールマークからすると、バーミンガムで1920年検定と推測されるデニソンケース。時代を経た銀製品特有の柔らかな輝きと艶っぽさを感じさせてくれます。
それでは最後に画竜点睛を入れるべく、懐中時計用に誂えた組紐を付けてみましょう。上野にある和装の老舗「道明」で作って頂いた組紐です。17世紀から伝わる手組みの技術を今に伝える職人さんの手作りで、アンティーク時計と合わせても浮き上がることはなく、さらに落ち着いた雰囲気を感じさせてくれます。
かくして、こだわりのアンティーク時計を作り上げる計画は一応の完成を見ました。
……唯一にして最大の問題は、かかった費用が時計本体の倍に迫るほどまで膨らんだこと、でしょうか(笑)
ま、ここまでこだわって世界唯一の時計を手にしたのです。悔いはないことでしょう。
Comments
まいど
記事作成お疲れさん。
宣伝臭が強めカナ?って2chあたりで叩かれそうな内容だけど、実際見事な仕事だから仕方ないよね?
道は拓いたので、赤エナメル、ギョーシェ彫り、金文字、金の飾り針、金無垢ケース、ヴァンガードサイドワインダーで真紅を創るように彼の方を唆すように(笑)
君の愛する性悪ですよ人形を君が創るのでもよいが。
ちなみに「土佐水銀党」からここへのリンク切れとるよ~
ではでは
出来ておる、出来ておる喃(ぇ 欲を云えば、銘はドイツ文字(フラクトゥーア、いわゆるひげ文字)だとさらによさげだったかもしれないけどさすがに無理ですか。ともあれその勇気と散財に拍手です。一生大事にしてくださいね。
宣伝臭もなにも、これ宣伝ですがな(笑)。作業中に色々無理なお願いして取材に協力して貰ったんだから、ちゃんとお返ししませんと。
でも、別に嘘書いてるわけでもないので、気になることがあれば訊いてもらっても直接お店に訊いてもらっても構いませんよ、と。実際良い物ですし。
「次」についての技術的な詰めはぼちぼち進めてます。ご期待あれ。
> 欲を云えば、銘はドイツ文字(フラクトゥーア、いわゆるひげ文字)だとさらによさげだったかもしれないけどさすがに無理ですか。
記事中にもあるように、ヒゲ文字や筆記体も検討はしました。技術的には可能なんだけど、とんでもなく手間と時間を喰う上に一つでも間違えると最初からやり直しになりかねないというハイリスク商品になってしまうので、見積り額が数倍に跳ね上がってしまいます。仮にその額を用意しても、唯一の職人をそれだけの時間貼り付けっ放しにすると他の仕事が完全に止まるため、やっぱりあまり現実的なオプションにはならなかったということで。
ギョーシェ彫りは野望の最終形ですが、専用の特殊旋盤を手に入れねばならないそうで。これはそう簡単には行かなさそうです。
特殊旋盤はかなり高いですからね。導入は難しいかと。ギョーシェ彫りはかなり高度な技術が必要と聞きますが、できるんですね。すごい。