Jun.05, 2006

皆が見つめるそれぞれの世界

[Diary]

そういえばDVDが全部揃ったのだった。

私は殆どアニメのDVDを買わない。とりわけTVのは。理由は簡単、コストパフォーマンスが非常に悪いから。録画で充分だ。私はケチだろ。

それでも珍しくDVDを買うシリーズは年にひとつくらいはあって、先日完結したのが「絶対少年」。

畏友さら丼に薦められなければおそらく見なかった(そもそも存在を知る事がなかった)だろうけど、一度見てみると妙に気になってしまった。あんまり熱狂的に見ていたわけでなし、ここが面白い!と一言で表せるようなものでもないけれど、不思議な味のある作品だと私は思っている。

なかなか説明が難しいので抜粋の抜粋から孫引きすると、「『絶対少年』とは、光の妖精たちに導かれる少年・少女たちの物語」とある。これは正しくもあり正しくないようでもあり。「少年・少女たちの物語」というのは概ね正しいけれど、妖精(マテリアルフェアリー)がそこに果たす役割というのはまちまち。「導かれているかのように」物語が織り成されてはいるかもしれないけれど、決して妖精が「導いている」わけではない(そもそも「導く」といった意思の存在さえも明確ではない)。

この作品では「妖精たちの世界」というのは間違いなく存在していて、その断片が「世界の皮膜の綻び」を通して垣間見える。しかし、彼ら(彼女ら)はあくまで自身の構築した「日常」「世界」に生きていて、その立場によって見るものの捉え方や向き合い方が全く違う。妖精はあくまできっかけで、実際にはそれぞれの事情を抱える少年少女の群像劇といった話だし、「結局、マテリアルフェアリーとは何だったのか」という点について答えを示さないのも意図的なものだろう。そのタイトルとは裏腹に、「絶対」というものはないようにさえ思える。

特にこの傾向は横浜編で顕著で、それが「イマイチ横浜編の話はよく解らん」と畏友諸氏が首を傾げる原因の一つではないかと思う(それに比べると田菜編は、「田舎」「夏休み」という非日常に「世界の皮膜の穴」を繋ぐことで「ひと夏の不思議な体験」というまとめ方で捉える事もできるので、観客の立場からはなんとなく解ったように見える)。

だから、この作品の捉え方というのは、それぞれが自分の視点から築くべきなのだろうな、と思う(別に哲学する必要はないと思うけど)。

ちなみに、私が横浜編で印象的だと思ったのは、登場人物たちの「ケータイ」による歪なコミュニケーション。個々人がダイレクトに、不躾なほどあけすけに繋がる一方で、その繋がりの上を走るやりとりはあまりに拙い。しかも、その繋がりは自分の都合だけで無視することも切る事も出来る。近年の異様とさえ言える日常生活の変質ぶりを端的に表している。

私の一番のお気に入りは、それが当たり前という文化で生活している少年少女達を好々爺然として喝破するばーちゃん、土岐宮はな媼だったりする。その言葉はまさに単刀直入な名言揃い。「ばーちゃんは何でも知ってるんだな!」と憧憬に目を輝かせる孫のような気分にさせてくれる。お気に入りをいくつか引用してみよう。

「プチ家出っていうらしいですよ」
「プチ家出、ね……流行やファッションのように呼んで問題を曖昧にする。……直視するのが怖いのかね」
「何をです?」
「相手をさ。わかってるはずだよ」

直視というのは相手の気持ちを受け止めることだった。希紗の心から目をそらさないことだ。相手のよろこびも辛さも共有できること。自分に都合のいいときだけ現れて、おいしいところだけ奪っていかないこと。相手に責任を持つこと。

横浜編 第五章―それは関与できない問題

私が日頃よく感じる疑問に通じる言葉。あまりにも無責任に流行やファッションのような表現を濫用し過ぎていないか?「プチ家出」をその辺の流行語に置き換えると、多少なりとも解ってもらえるのではないかと思う。

「ツンデレっていうらしいですよ」とか云われた時の私の内心はまさにこんな感じだった。都合の良い「属性」とやらだけを摘み食いするのは余りにも浅いんじゃないのか?とか。こういう手合いの振り回す「萌え」とかいうのは、動物の鳴き声とどう違うのか?とか。

「ほんのついこないだまで、携帯電話やメールなんてものは、なかったんだよ。それで不自由とも思わなかったね。会ったときしか伝えられないから、会う前には色んなことを考えた。それで伝えるべきことは伝えられた」
「言葉が軽くなっちゃったのかな」
「携帯電話やメールが悪いわけじゃない。メールを読んで、相手のことが、すべてわかったと思いこむこと。同じように、メールで伝えたから、すべて伝わったと思いこむこと」
「…………」
「都合が悪いから、会うのが気まずいからといってメールで済ませること」
横浜編 第九章―消えたものと生まれるもの

敢えて「携帯電話やメール」という表現を使うことで、昨今の「ケータイ」という文化の埒外から客観していることを表明しつつ、その問題点を一刀両断にしてしまう見事な喝破。私の「ケータイ」嫌いの理由の半分はまさにこれだからえらく共感を覚えた。

結局、問題は「直視すること」という姿勢の問題に帰着するのではないかと思う。直視するということは、相応のリソースを相手に割くということ。かつて、それが関わりを持つこととイコールだったのが、情報通信機器の発達によって乖離し始めている。僅かなリソースでも手っ取り早く幅広い対象に触れられるようにはなったが、その中に「直視している」ものは果たしてどれだけあるのか?と。

技術や手段の進歩や利便性の向上を評価する事には吝かではない。私だって世間一般からすれば新し物好きと言われても良い部類に入るだろう。ただ、それとは全く別に、決して忘れてはいけないものがあるんじゃないのか?とありきたりな事を再確認させられた次第。

こう考えると、TVアニメとしては結構野心的だったのではないかなぁ。とても解りやすいとは言えないし、名作とか万人にオススメとも言えないけれど、たまにはこんなのも良いんじゃないかな、と思う。媚びてないし。

それはそれとして、何でBOX(4巻×2)で出しておいてそこに全部収まらない(全9巻)のだろうと首を捻る私がいます。

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