Mar.07, 2010

Waltham '72 Model

[Watch Collection]

本来はここから始める予定だったのですが、予想外に前置きが長くなってしまいました。しかし、その前提を知るか否かで見方が大きく変わってくるだけの情報でもありますので、ご容赦頂きまして。

また、文中の用語で過去の記事で触れているものについては説明を省略していることもあります。あしからずご了承下さいませ。

それでは、今回入手した機械をもとに'72の特徴を見ていきましょう。

ついに ねんがんの '72を てにいれたぞ!

受板に記されたグレード名は"Amn Watch Co."で、最上級の"American Watch Co."に次ぐものです。シリアルNo(1,831019)は、この機械が9000個弱製造された"Amn Watch Co."グレードの'72のうち、1881年の最後に製造されたハンターケース仕様100個のうちの一つ(おそらく19番目)であることを示しており、1890年頃まで生産された'72としてはほぼ中期の個体となります。

Movement Overview ―― ムーブメント概観

全体にピントを合わせて反射を抑えて写真を撮ると解りにくくなってしまうが、プレート全体を飾るダマスキンが見事。蒼い螺子も高級機の証。

まず、72といえば板であり、この板なくして'72は語れません。

ダマスキンと流麗なレターに彩られた3/4(three-quater)プレートがが目を惹きます。高級なグレードほど手の込んだ仕上げが施されており、最高グレードになってくるとただ絢爛であるだけでなく、同じ模様の個体を探すのが難しいほど多様な意匠が施されています。

一枚板の受板は四本の柱で支えられます。これは全ての'72に共通する特徴であり、それゆえにスプリットプレート、プロファイルプレートといった派生型は存在しません。

丸穴車、角穴車の装飾も見事ではありますが、後年のアメリカ懐中時計を知る人ならば違和感を覚える点があることでしょう。角穴車は竜頭に連動してゼンマイの巻き上げを行いますが、歯止めのクリック(ツメ)が見当たらないのです。

実際には角穴車と対になる歯車(これもまた角穴)が香箱の地板側に取り付けてあり、ここに噛み合うクリックが歯止めの役割を担っています。一般的には'72識別の大きなポイントですが、例外‡1が存在していることも併せて知っておいて損はありません。

ムーブメントのサイズは一般に16サイズ(1.615inch≒41mm)と表記されますが、地板側はこれより大きく、サイズ換算で17サイズ(1.733inch≒44mm)となっています。また、通常ケース側から差し込まれる巻真がムーブメント側から出るようになっており、ケース側、ペンダントの内部でメスの角穴と噛み合うようになっています。この独特の構造のため、後年の規格化されたアメリカ時計と違ってケースに互換性がありません。

NAWCCのレポート執筆者は、この独特の構造はわざと互換性を廃して時計自体をリプレースさせるための意図的な施策だった可能性を指摘しています。考えられなくはありませんが、私個人としては、単に新機軸を導入した結果そうなっただけのように思えます。どのみち竜頭巻き機構が入った時点で鍵巻き用ケースに収めるのは事実上不可能になっており、互換性排除のためだけに仕様を特殊化するとは考えにくいと考えるからですが、真相はよく解りません。

余談ながら、この時代の時計の価値というのは現代の我々が想像するよりもはるかに高く、修理や再利用という意識も高かったようです。そのため、ケースを廃棄(金製であれぱ鋳潰して再利用)する際に質の良いムーブメントがあれば再利用したり、ムーブメントそのもののアップグレードを行ったりといった例が存在したようです。ウォルサムが自前のケース製造設備を抱えていたのにもこうした意味があったのではないか、と指摘されています。

Movement Detail ―― ムーブメント詳細

それでは、ムーブメントの詳細を各部分ごとに見ていきます。

Jewels and Setting ―― 石数・石留め

受板裏側。シャトンとネジ留め用の穴が解る。分解しないと絶対見えない裏側にここまでの仕上げが施されているのは驚異。

石数は16。通常の15石レイアウトに二番受板側の石を追加したもので、当時としては十分に高級な仕様です。後年の高級機では23石以上の仕様も珍しくないため、ともすれば軽く見られがちですが、人造ルビー(サファイア)の工業的製法が広まったのは20世紀になってからであることを考えれば、それ以前の年代の時計における15~21石という仕様の価値は、後年の23石と比べていささかも見劣りするものではないと考えます(少なくとも、単純比較できるものではありません)。また、後でも触れますが、実用に足る精度を出すだけであれば、15~16石のムーブメントでも充分に要件を満たすことができます。

なお、'72においては、いずれのグレードにおいても石数の刻印は行われていません。あったとしても全てウォルサムとは無関係の後付であるとされています。そうした刻印を調査した結果、いずれもウォルサムの社内基準を満たしていないものであったことがその根拠として示されています。

石留めには金製のシャトンが用いられており、ネジ留めされています。特に二番車には、"raised setting"と呼ばれる高く盛り上がったシャトンを用いる方式となっています。グレードによる差別化がなされていることが多く、高級グレードでは「高さのある」「金製シャトン」の「三点」「青焼きネジ留め」となっているところが、グレードによって各々の要素が簡略化されていきます。

最上級グレードの場合は文字盤下まで全て金製シャトンをネジ留しているようですが、この個体ではさすがにそこまではしておらず、地板と同じニッケルで留められています。


Train ―― 輪列

輪列。アンクル受けの彫刻も手が込んでいるが、完全に隠れる香箱にまでダマスキン仕上げが施されている。

ペンダント部分の拡大。後年の機械とは巻真のオス・メスが逆になっている。また、丸穴車に繋がる歯車は笠型。

輪列は二番車が金で、その他はガンギ車も含めて真鍮です(最上級のグレードでは全て金製のものもあるようですが)。受板にも刻まれていますが、二番車のカナはセイフティピニオンとなっています。

受板に取り付けられた丸穴車はペンダントに接続された笠歯車と噛み合うため、こちらも笠歯車となっています。'72独特の部分ですが、分解しないと拝めません(笑)。



香箱の上下。上下とも角を持っている。
クリックスプリングと解放機構。ネジを回すことでクリックのツメを外し、ゼンマイを解くことができる。

'72で独特な部分として、ゼンマイの巻き上げと香箱の歯止めを別々の歯車が担うため、香箱真のホゾが上下とも角を具えています。

歯止め用歯車とクリックは地板側に取り付けられますが、整備時にゼンマイを解くため、受板側からクリックをリリース(let down)することのできるノッチが併設されています‡2。同じ役割を果たす部品であっても、後年の機械では角穴車の脇に留められたわずか一つの部品にまで単純化されていることを考えると、いささか複雑な構造になっています。

私見ながら、このある意味迂遠ともいえる複雑な香箱周りの構造は、鍵巻機構の名残だったのではないかと思っています。竜頭巻き機構は香箱真に接続する鍵を角穴車に置き換えるためのものとされ、歯止め部分は鍵巻時代の構造を踏襲したのではないか、と。

Anchor ―― アンクル

ちょっと変わったアンクル。

アンクルは複数のパーツを組み合わせた造りになっており、フォークの反対側にカウンターウエイトを備えています。後年の機械のように面取りや研磨といった追加仕上げまで施されているわけではありませんが、爪石が側面にアールを具えたものであるというのはちょっと驚きでした。

テンプがセイフティローラーを持たないシングルローラーであるため、フォーク部分も対応した構造になっています。

なお、後年の鉄道時計ではダブルローラーが認定条件となるため、シングルローラーはダブルローラーに劣ると短絡的に考える向きもありますが、ダブルローラーは振り石がフォークから外れて停止するという事態に対する安全装置という意味での「セイフティ」であり、過酷な状況下で停止する可能性を排除するために求められた機構です。

あくまで安全装置であり、精度そのものに関わる要素ではないため、シングルローラーであるから、ダブルローラーであるから、という理由で精度を論じるのはいささか筋違いになりますので、念のため。

アンクル受けは真鍮製と思われますが、彫刻による装飾が施され、手の込んだ造りになっています。また、バンキングピンも後年の鉄道時計でも見られるような偏心ネジ状の微調整可能なものとなっています。

Ballance and Regulator ―― テンプとレギュレータ


テンプの上下。
"tadpole"レギュレータ。コンパクトにまとまっている。

テンプ廻りはバイメタルの割テンプと巻き上げヒゲ、チラネジと二対のミーンタイムスクリューは全て金製と、後年の高級機にも踏襲されている要素がみられます。

時計の構成部品は製造時からきちんと管理されており、個体識別のためのマーキング(シリアルナンバーの一部)がテンプであればアーム下側に記されています。ケガキであったり刻印であったりという違いはあるものの、他の部品も同様で、生産管理に並々ならぬ注意が払われていたこと、その一方で一品モノではなく、高級ではあってもあくまで量産機として登場したものであることを伺わせます。

緩急針の微調整を行うレギュレータは"tadpole"(オタマジャクシ)と通称されるタイプで、Nashuaにも名を連ねていたCharles W. Fogg氏のパテントです。当初は最高グレードのみに用いられましたが、後になるとそれ以外のグレードにも用いられるようになっていきます。

レギュレータのバリエーションとしては、"Patent-Heart"と呼ばれる、ハート型のカムに繋がったレバーで微調整を行うタイプのものがあります。"tadpole"レギュレータが最上級グレードのみに使用されていた頃には、最上級以外のグレードがこれを装備していました。

その他には、下位グレードに採用例の多い、ごくシンプルなストレート型のレギュレータがあります。

伏石とレギュレータを固定するドームには特に装飾の類はありませんが、最上級グレードではサンバーン状の研磨仕上げを施したり、彫刻を施した金のドームにしたり、といった差別化が行われています。

Dial and Hands ―― 文字盤・針

いかにもアメリカ的な実用性重視の文字盤。ベゼルの四時半部分にレバーが収まっている。
文字盤下。青焼ネジや偏心ネジのバンキングピン、テンプと同じ"019"の刻印に注目。

文字盤は陶製のサンクダイアル。インデックスはアラビア数字で、外周に5秒標示。針はブルースチールのブレゲ針。簡潔にして合理的な、いかにもアメリカ的な仕様となっており、そのまま鉄道時計に使えてしまいそうです(実際、ごく初期の基準であれば十分にクリアしています)。

針合わせはレバーセット。ペンダントセットが当たり前の現代からすれば旧式と見られがちですが、鍵巻き・鍵合わせがまだまだ一般的であった当時からすれば画期的な機構でした。

なお、針合わせに関しては、Waltham風の表現で"outside-push"と呼ばれる方式が僅かながら存在すするようです。"outside-push"にはケース縁に設けられたボタンを押し込むタイプと、ボタンのような張り出しを持たず、同じ位置にある部分をさらに押し込むタイプ(いわゆるネイルセット)がありますが、基本的には同じものです。

Case ―― ケース

14Kハンターケース。ペンダント部分のネジが特徴。

前述の通り、'72はその構造上、ケースに互換性がありません。そのため、ケースもウォルサム製で、14金のハンターケースとなっています。ペンダントの裏側にあたる部分に巻真を接続状態に保つ為の固定用ネジが入っているのが特徴です。

蓋のエンジンターンはやや薄くなっていますが、側面のコインエッジや骨太なペンダント周りがらくる重厚感に唸らされます(あくまで比較の問題で、上にはいくらでも上があります。念のため(笑))。後年の時計では小型化、薄型化がトレンドとなったため、高級機であってもケースそのものは肉薄に造られる場合が多くなるだけに、手に取って比べると違いが際立ちます。

Conclusion ―― まとめ

というわけで、「いつかは'72」と思っていた念願が叶い、その実物を手にすることができました。

いまだ洗練と合理化の途上にあると思われる部分はあるものの、後年の機械の礎となる要素の殆どが盛り込まれており、鍵巻きの時代と「轟く20年代」(Roaring Twenties)とまで呼ばれる繁栄の時代を繋ぐ歴史的価値、そして何より、その時代を担うフラッグシップモデルとして充分に手間とコストをかけて作り上げられた重みを感じずにはいられません。そこには単なる機構の新旧を超えた価値があります。

その結果として作り上げられた品質は流石と唸らされるもので、製造から130年に迫ろうという今日、実用してなお十分な精度を発揮しています。

私がこの個体を実用した限りでは、最も調子の良い時で、時刻合わせから二週間日常使用して電波時計との差が+4秒、という実績があります。温度補正にも限度があるので季節によって多少の変動はありますが、それでもPCの内部クロックの方がまだいい加減と思えるほどの精度を発揮しています。

しかし、こうした成功の陰で、'72を生み出したNashua部門は主要な技術者の退職で消えていき、やがて20世紀の初頭には経営危機直に面することになります。その辺の話は機会があればまたいずれ。

130年。言葉にすれば一口ですが、人間にすれば優に数代分。移り行く時代の中、往年の名機といえども手放され、廃棄されるものも出てきます。

不況や恐慌に伴う困窮で手放されることもあれば、戦争の影がちらつくこともあったでしょう(南北戦争後、国内を殆ど戦場にしていないアメリカでは戦災や戦費調達名目の接収は少ないと思われますが、日本では戦災の他、戦費や資源の調達の為「献納」「金報国」などの供出行為によって多くのものが喪われました)。

そんな時代を潜り抜けてなお今日存在しているその幸運と奇縁を喜びつつ、大事にしていきたいと思うものです。

  • ‡1: "Park Road"グレードのこと。グレード紹介にて詳述
  • ‡2: 後に、小型化したクリックを地板の外周際に配置し、ムーブメントの側面から操作する方式も登場
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