Jul.03, 2006

余禄・ウェブ C. ボール考

[American PocketWatch]

キプトンの事故とボールについては、NAWCCの記事を参考にさせて頂きました。

その記事にあったボール考も興味深い内容だったので、余禄として抜粋しながらご紹介していきます。

ウェブ C. ボールの経歴

まず、ボールの経歴について、これまでに挙げていない点をいくつかご紹介します。

フレデリックタウンの宝石商、ジョージ・ルーイン(George Lewin)の下に徒弟入りしたボールは、最初の一年は無給だったものの、二年目には週に一ドルの給料を受け取るようになりました。これは、当時しては典型的なパターンだったようです。

見習い期間を終えると、彼はMr.ストーン、すなわちセールスマン兼時計職人の職を得ましたが、一年後には店を去り、オハイオ州マウント・ギリアド(Mt. Gilead)に自分の修理店を開きました。

さて、靴屋の倉庫に開いたボールの修理店ですが、わずか三ヶ月で店を畳んでしまいました。研究者は、事業に成功しなかったのではないかと推測しています。その後、彼はボウラー&バーディック社(Bowler and Burdick Co.)に入り、トップの訪問販売員となりました。この会社で二年を過ごした後、彼今度はケンタッキー州ニューポートから来た時計ケースのメーカー、ジョン C. デュバー(John C. Deuber)に入ります。

訪問販売員時代から、ボールは街を巡るかたわら、宝石店を開くのに良い場所を探していたようです。ボールが店を構えたスペリオール・ストリート233番地は、その末に見つけた好機でしたが、最初からボール独りで開業したわけではありません。

まずは1879年3月、ボールはウィットコム(Whitcomb)とメッテン(Metten)の会社の株を取得しました。スペリオール・ストリート233番地に10年前に設立されたものです。個人的な手紙のやりとりから、この会社に雇われている間から、ボール氏はウィットコム氏を引き抜き、パートナーシップを確立したことが判っています。

同じ年の10月には、ボールはウィットコム氏の株を買収してウェブ.C.ボール・カンパニー(Webb C. Ball Company)を設立します。しかし、ボールはビジネスの成長ぶりに満足していなかったらしく、次いで卸売会社の開業を考えました。ただ、この卸売はずいぶん後まで軌道には乗らなかったようです。

さて、件の事故の後、レイクショア鉄道におけるボールの鉄道時計監査システムの成功は、他の鉄道線路との関係を築く契機となりました。その結果、彼のビジネスは急成長し、短期間のうちに、1891年のうちに株式会社を設立することができたほどの成長を遂げました。その資本金は10万ドル、(NAWCCの記事が執筆された)1990年の水準で141万ドルに相当します。それまでの「ショーケース二つと作業台一つ」という規模からすれば、大成功と言ってよいでしょう。ボールの会社は短時間のうちにビルの3つのフロアを占領し、結局はビルを自体を購入しています。

ボールの絶頂は1918年頃とされています。当時、監査する鉄道はおよそ180、店ではおよそ800個の時計が検査と調整を受けていました。時計の調整のためだけに、20~25人の男性が雇われたという報告もあり、彼の会社はおよそ100万~200万個の腕時計を管理したと見積もられています。これを評して、研究者は「ボール王朝(Ball's dynasty)」と呼んでいます。

その絶頂期、「ボール王朝」は次の組織から成っていました。

  • ボール宝石店(Ball Jewelry Store.)
  • ボール時計店(The Ball Watch Company.)
  • ボール標準鉄道時計社(The Ball Railroad Standard Watch Co.)
  • 標準鉄道時間事務局(4支局)(Bureau Of Railroad Time Service. (four branches.))
  • ノリス・アリスター・アンド・ボール社(宝石卸売)(Norris-Allister-Ball Co. (Wholesale Jewelry))

第二次世界大戦の終わりまで活発な活動を続けた「ボール王朝」は、時代の変化と鉄道産業の衰退によって悪影響を受け、急速に衰退しました。1961年には小売会社が倒産、会社の残りはシカゴに移りました。しかし、ボールの時間サービスはまだ稼働中であり、ジョージ・ボール(ウェブ.C.ボールの曾孫)によって管理されており、 多くの鉄道が契約を維持しています(ただし、1992年時点の話。現在は不明)。


ボールとハミルトンの関係

資料によると、1894年から1896年にかけて、ボールはハミルトン・ウォッチ・カンパニーの後押しを受けたとされています。その根拠は、ディレクター兼メカニカル・エキスパート副社長という彼の肩書きにあります。

たとえ技術力があっても、財務あるいは経済上の理由により閉鎖された例は、アメリカの時計メーカーには珍しくありません。ハミルトンもまた、そうした理由で閉鎖されたランカスター(Lancaster)とオーロラ・ウォッチ・カンパニー(Aurora watch companies)の生き残りによって1892年に設立された会社です。

ハミルトンは、監査システムによって高品質時計の需要が生み出された鉄道産業に時計を供給することを当初から目的にしていたようです。その一方で、ボールもまた、その監査システムのために優秀な時計を大量に必要としており、その点で両者の思惑が一致したのだと研究者は推定しています。その結果が、ボールの副社長格というわけです。事実、ハミルトンはボールに対し、大々的にムーブメントを供給しています。

ボールの商才

NAWCCの研究者は、ボールをして「ユニークな取引の才能を持つ、モデル企業家として研究されるべき人物」と評しています。その指摘を読むと、確かに今日においても通用するようなビジネスの手腕を見て取る事ができます。

まず、ボールは自社でムーブメントを開発・製造することはありませんでした。ボールはウォルサムやエルジン、ハミルトンといった各ウォッチメーカーからムーブメントの供給を受け、それを自社ブランドとして販売していたのです。今でいうOEM(相手先ブランド製造)です。鉄道時計の規格を制定し、その監査システムを鉄道会社に売り込める立場にあったボールは、その販路をメーカーに提供する代わりに、多数のメーカーから供給を取り付ける事で、ムーブメント供給の安定と柔軟性を得ていたのではないかと考えられます。

その一方で、標準鉄道時計の規格がオープンであったことにも留意すべきです。客観的なスペックを公開し、これを満たすグレードをメーカーを問わずに「公認」したことで、アメリカの時計産業は「鉄道グレード」を軸にしてポジティブな発展サイクルを取ることができたと言えるでしょう。これがもし、恣意的な認定による閉鎖的な囲い込みを行い、自社の優位確立のための政治的な道具として用いられたとしたら、標準鉄道時計というシステムそのものが徒花となり、アメリカ時計産業そのものの発展を阻害した可能性は少なからずあったように思います。

さて、ボールが自社ブランドとして売り出した時計ですが、そのネーミングは他の時計メーカーとはかなり異なったものでした。他のメーカーは象徴的な名詞や形容詞、あるいは地名や人名を用いていましたが、それはあくまでメーカーが自身をアピールするためのものといえます。しかしボールは、"OFFICIAL RAILROAD STANDARD"をはじめとする数多くの商標を活用し、そのユーザーである鉄道員の購買欲を掻き立てるようなネーミングを行いました。

"OFFICIAL RAILROAD STANDARD"はあくまで商標であって、鉄道時計として公認された時計はもちろん多数にのぼります。しかしこれは、敢えて「公式(OFFICIAL)」「鉄道(RAILROAD)」「標準(STANDARD)」といった語句を重ねることで、ボールの時計=公認鉄道時計という連想を誘導するように仕向けた意図的なネーミングだと研究者は指摘します。

また、ボールが取得した商標は往々にして組合のロゴと共に用いられていました。例えば、このような組合です。

  1. B of LE(機関士組合)
  2. B of RT(鉄道員組合)
  3. B of LF(機関助手組合)
  4. B of LE&E(機関士及び機関助手組合)
  5. ORC(Order of Railroad Conductors)(鉄道車掌団体)
  6. ORT(Order of Railroad Trainmen)(鉄道員団体)

ボールはこれらの商標を、そのロゴと共に文字盤に描きました。ケースを頻繁に開けてムーブメントを観賞するようなマニアではない以上、最も露出の多い文字盤にこうした要素を取り入れるというのは、戦略的と言ってよいでしょう。

そして、ムーブメントのグレード名。ボールの場合、そのグレード名(333、999など)には一見脈絡がないように見えますが、視点を変えると繋がりが見えてきます。これらは、当時有名だった機関車に因んだ名なのです。例えば999は、1893年に平均時速112.5マイルの速度記録を達成した機関車ですし、別の有名な機関車、"Twentieth Century Limited"に因んだものもあります。

「公式」「標準」といった語句を使った商標、自身が所属する組合のロゴが入った文字盤、鉄道員にとって馴染み深く、象徴的な名車に因んだグレード名のムーブメント。「鉄道員ならこれを買え」と言わんばかりの、いっそベタと言ってもいいほどの露骨な誘導ですが、これだけ煽られれば、ボールの時計を購入する鉄道員が続出しても不思議はありません。

今で言うオープンシステム、オフィシャルグッズ商法とでも言うべきブランディングやマーケティング、OEMといった先進的な手法を駆使することで、ボールの会社は前述のような急激な成長を成し遂げました。これがもし、鉄道グレードのムーブメントの自社開発・生産に拘っていたとしたら、設備投資や自社の製造キャパシティといった問題に足を引っ張られ、これほどの成長は望めなかっただろうと想像できます。

まとめ ウェブ C. ボールとは?

時計職人としての経験があるとはいえ、ボールの本質は商才に長けたビジネスマンであろう、という研究者の見解には説得力があると思います。

例えば、リペアショップを開いたが長続きせず、セールスマンとしてはトップと認められた、という経歴は象徴的と言って良いでしょう。また、クリーブランドに店を開いた際の手腕、開業後の卸売への着手もその傍証といえます。

では、その姿勢はどうでしょう。ボール自身は、常に「第一の関心事は安全にあり、その動機は純粋なものである」と表明しており、その没後には様々な献辞がなされました。果たしてその実態は、その言葉通りに鉄道の安全のために理想に燃えて鉄道時間管理に取り組んだ義士であったのか?

この点については、私は眉唾物であると判断しています。その根拠の一つに、鉄道時間の管理を行う"Time Service"を設立した際の設立文書があります。曰く、

「事務局(時間管理サービス)の目的は利益やいかなる販促活動でもなく、標準鉄道時計の総監督により、不正確な時計によって引き起こされる鉄道の運行における危険要素を減少させ、公衆の安全要素を増加させることは、安全で効率的な鉄道運行に不可欠である」

この言葉そのものは、非の打ち所のない正論です。問題は、研究者の指摘にもあるように、その設立が1918年、既にボールが大成功を収め、その体制が磐石となった後の事だということ。無私の理念・理想というよりは、自己正当化のための大義名分と捉えた方が妥当だと思われます。

また、ボールの経歴は争いと無縁だったわけではなく、監査システムを巡る検査技師の囲い込みでは同業者と、"MANUFACTURERS"と謳った広告ではジョン C. デュバーと、そして監査システムそのものについてもサンタフェ鉄道の時間検査官と諍いがあったようです。少なくとも前者二つの問題については、その原因はボールのビジネスに端を発する問題で、理念・理想をめぐる衝突とは考え難いと思われます。

こうした点を考えると、ウェブ C. ボールとは、正論のもとに大義名分を立て、上手にビジネスを進めて成功した立志伝中の人物である、という評価が妥当ではないかと思います。無論、その実績は正当に評価されて然るべきですが、過度な持ち上げ方をして聖人視する必要はないだろうというのが私の考えです。

Here are 4 Comments & 0 Trackbacks

Comments

From :あしなが : 2006年07月07日 07:00

やはり、NAWCCですね。研究が深いし、読み応えあります。
とはいえ、英語ではなかなか読みこなす人もいないでしょう
から、こういった仕事は多くの人に評価されて欲しいです。
今回も大変勉強になりました。歴史的に淡々と語られる事実
を基にその人物像に迫る手法、物語の展開は、想像力が高ま
り、なんだかワクワクしますね。次も期待しています!

From :PsyonG : 2006年07月10日 00:41

過分なコメント、ありがとうございます。

判らない事だらけなもので、こうして少しずつ調べているわけですが、その過程が少しでもお役に立てれば幸いです。

NAWCCの資料は本当にためになりますね。断片的にしか入手できていないので、常に知りたいことに結びつくわけではありませんが、驚くようなことが書かれていたりもします。英語力がないので訳が猛烈に遅いのは困り物ですが(苦笑)

何処までご期待に沿えるかは判りませんが、今後ともよろしくお願いします。

From :紅蓮雷炎(グレン・ライアン) : 2006年10月17日 08:37

いや、面白かったです。
アメリカの(懐中)時計発展史、こんな風になっていたんですか…
『古の時計』を買い始めたことをきっかけに足を踏み込んだ懐中時計の世界、奥が深い(^^;;

From :PsyonG : 2006年10月17日 21:15

ありがとうございます。お役に立てれば幸いです。

アメリカ懐中といえば鉄道時計が有名ではありますが、それが全てというわけでもなく、アメリカだけでもまだまだ奥深い側面があります。

他国・他時代ともなると、その歴史・背景の違いも含めてまた違った見所・魅力があるわけで、実に奥深いものだと思います。

今のところ、アメリカだけで一杯一杯な私ですが、少しずつでも勉強できればなぁ、と思っていますので、今後とも宜しくお願い致します。