Nov.21, 2008

仮想のアイドル 仮想のスター

[Diary]

iM@Sのベスト盤など買ってみる。

特徴的なのが、「既存と新録が混在しております」という注意書き。

実際聴いてみて理解。元々のバージョン(パート編成程度は多少弄ってある?)に新録のボーカルを足して違うパターンにしているわけだ。そういや別のCDでは既存ボーカルにリミックス曲を合わせたパターンもあったな。正直再生怪人スレスレの手段なので、あまり濫用されると首が絞まるような気もするのだが、まあなんとか許容範囲内といったところか。

今まであまりなかった(と思う)形式だが、こちらの聴き方も今まであまりないやり方になっていることに気付く。

聴き終わる前からちょこちょこ準備して、気がつくと簡単な私家版など作っている。まあ簡易なもので、同じ曲で違うキャラクタが歌っているもの同士をシンクロさせて合成しただけだけども。細かくやろうとしたらボーカル抽出の上でパート編成ってことになるのだが、そこまで手間かける暇がない。それでも定位を左右に振り分けるとちょっと華やかなコーラス・エディション一丁上がり。あまりやり過ぎるとカオスになるが、聴いててちょっと楽しくなる。

いつの間にやら、CDを素材とみなす発想が自分の中に定着してたんだなぁ。昔はわざわざ「素材」と銘打ったボイスやSEをPCのイベントに仕込むくらいだったのだが(そういやWin31時代システムエラーに『超兄貴ショー』のアイキャッチを仕込んだのを忘れていて、Win95にアップグレードかけてる最中にこれが鳴った時にはさすがに『俺駄目だorz』と思ったものだが;)。

こんな些細なことひとつ取っても、時代は確実に変わってるんだなぁ、とか。

ところで、畏友アイダスキーが「XENOGLOSSIA(スペル合ってるよな?;)がProject IM@Sの一環と一般に認知されていない(制作側は『アリ』と云ってるのであくまで受け側の認識)のは何でだろう?二次創作も大概無茶なの多いのに」と呟いていたのでそん時のメモ。

やっぱり「中の人を替えたせいでスターシステムが機能していないから」が端的な答えだと思う。出来不出来はあまり問題ではなく。

この辺は舞-HiMEプロジェクトなんかと比較するとはっきりする。アナザー世界にぶっ飛ばした挙げ句配役も様々、性格反転したキャラさえあっても舞乙HiMEシリーズが「舞HiMEプロジェクトとは認められない!」という流れにはなってないように思う。制作スタッフ自体XENOGLOSSIAとかなりカブってると聞いた覚えがあるので、両者の唯一にして致命的な違いが「中の人」ではないかと。そもそも舞乙HiMEの場合、「声優の都合が付かないから台詞のないトリにして辻褄合わせた」とかいう話があるくらいだし。

じゃあ声優ってキャラクタと不可分なのかよというとまあそうでもありそうでもなく。

一つの配役(キャラクタ)を様々な人が演じる演劇的な構図を取るんならむしろ演じる側の多様性が楽しみのひとつになると思う(そんな贅沢な意図で中の人が違うシロモノって聞いたことないけど;)。

ただ、スターシステムの楽しみは「キャラクタを役者に見立てて色々な劇中劇をやらせることから生じる仮想性」の方にあるから、そこでキャラクタの同一性を揺さぶるような「中の人交替」は、(ことこのシステムを取る限りにおいては)ねじれや自己撞着を起こすリスクが高くてオススメできない。

それにしても、「仮想の役者に仮想のストーリー」なんて構図がこれだけ拡がってきているというのは20世紀のうちにはあんまり無かった光景かも。時代は進んでるんだなぁ。

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