Voyage.01「マレビト」
■はじめに
このカテゴリにある一連の記事は、『艦隊これくしょん -艦これ-』(DMM.com/角川ゲームス)の二次創作小説となります。
なお、作中の世界観、キャラクタ等に関する解釈・表現は、あくまで個人的なものであることをお断りしておきます。
上記を了解の上、ご清覧頂ければ幸いです。
■epigraph
- Where Do We Come From?
What are We?
Where Are We Going? -
by "ARPEGGIO OF BLUE STEEL - ARS NOVA - "
■Prologue
水底はただひたすらに暗く、昏く。
凍える深海に降り積もった絶望と怨嗟の圧力は、時の流れさえ圧し潰そうとする。
そんな深淵から今、ひとつの異形が這い上がろうとしていた。
NORTH ATLANTIC ORCEAN “the corner” 600km South of Newfoundland.
静謐なる星月夜。
華燭の煌めきを満載し、典雅な楽曲に乗って進む、海の貴婦人。
贅を尽くした宴の足下には薄汚れた、しかし無邪気な人々の夢と希望の数々が、レシプロ機関の鼓動と共に沸々と滾っている。
——ナゼ?
その栄華は、剥ぎ取られてしまったのか。
——ドウシテ?
その熱情は、奪われてしまったのか。
——アア、『ワタシ』ハ……
異形は己の存在を認識する。とめどなく湧き上がる呪詛の禍言とともに。
——オマエガ…ニクイ……!
ただ憎悪の命じるまま、炎に飛び込む蛾のように突き進む異形は闇の水面を突き破る。
その小山の如き異形が海霧を裂いて現れたとき、彼我の距離は既に500ヤードを割っていた。
驚愕に身が竦んだようなささやかな回避運動も意に介さず、異形は相手に激突する。しかし、その体躯には、鋼鉄の塊である相手ほどの強度は具わっていなかった。
異形の体躯は激突の衝撃に引き裂かれ、苦悶の喚叫を引きずりながら再び凍てつく水底へと堕ちてゆく。一方、相手は僅かに揺らいだだけでその衝撃を受け止めたかに見えたが、その喫水線下には不治の呪創のごとき傷痕が刻みつけられていた。
疵口から滔々と流れ込む水が計り切ったその余命、僅か二時間と四十分あまり。
かくして、『不沈』と謳われた世界最大の豪華客船、その処女航海は史上最悪の海難事故として歴史に刻まれる事となった。
だが、この事件がヒトと「それ」との最初の邂逅であった事を識る者はいない。
■『わたし』の記憶
STRAIT OF MALACCA 72km Northwest of Penang Island
『わたし』は、既に傷ついていた。
癒す術もない傷を引きずりながら、それでも『わたし』達には果たすべき任務があった。
敵は多数。
万全の状態なら、振り切ることも、あるいは返り討ちにすることすらできたかもしれない。
でも、脚を傷め、火力を大幅に欠いた今の『わたし』には、そのどちらも不可能だった。
闇の中、もつれる足取りに狙いも覚束ない『わたし』の抵抗を嘲笑うように斬り込んでくる敵艦隊。次々と身体を打ち据える鉄火。そして、喫水線下に突き刺さる決定的な、一撃。
……もう、逃げられない。
もはや『わたし』にできる事は、この場に踏み留まって最後まで戦うことだけだった。万に一つの命中を手繰り寄せ、敵を退ける可能性に賭けるしか、なかった。
……でも、やっぱりそんな奇跡を引き当てる力は『わたし』にはなくて。
どれだけの傷を負ったのかも判らないぎざぎざの『わたし』が、力尽きて沈んでゆく。『わたし』と共に笑い、泣き、戦った多くの人々の亡骸を抱いて。
……せめて、あの子だけは逃げ延びていてくれてほしい。
闇色の水の中、なにもわからなくなった混濁の中で、ただそれだけを願う。
(この海は、どんな色だったっけ……)
思い出す。
翡翠に例えるにはいささか無理のある、少々濁ったあの色に「緑青が吹いたような海だな」とぼやいた下士官さんを。
思い出す。
『わたし』が見てきた景色を。『わたし』と共に生き、そして死んでいった人々を。
――ああ、『わたし』は――
「『わたし』は――」
虚空に差しのべた右手は、何を掴もうとしていたのだろうか。
「右、手……?」
ゆっくりと身を起こし、じっと手を見る。脚がある。これではまるで――
「ヒト、みたい……」
何故、という疑問を口にする前に、響いてくる旋律があった。
「軍艦、行進曲……?」
前奏だけでも、間違えようはない。『わたし』はこの曲のなかで生まれ、幾度となくこの曲に送り出されてきたのだから。誘われるように立ち上がると、演奏の主を探して扉を開く。
扉の先に広がる光景は、いささか非現実的なものだった。
漫画本から飛び出してきたような、三頭身にも満たない頭でっかちの小人達。その一団が『わたし』の上甲板の一角で、金管楽器を抱えて賑々しく軍艦行進曲を奏でていたのだ。
そう、この艦体は、『わたし』。そして、今『わたし』の上に佇んでいるのも、『わたし』――。
「え……?」
目眩のするような非現実感。いや、そもそも『現実感』などという――
ガコンッ、という金属質の物音に振り向くと、ちょうど舷側にタラップが架けられたところだった。舷側からおそるおそる覗き込むと、タラップの先には見憶えのある白服―海軍第二種軍装に見える―を着込んだ一団の人々が横一列に整列している。姿勢こそ揺るぎもしないが、その意識、視線は、間違いなく『わたし』に集まっていた。
「はぅっ……」
緊張に足が竦み、このまま艦内に逃げ帰りたくなる衝動が湧き上がる。
(でも、この人達なら……)
何が何だか分からないこの状況について説明してくれるかもしれない。『わたし』は勇気を振り絞ってタラップに向き直ると、一歩一歩、タラップを降りていく。その時初めて、艦体が岸壁ではなく船渠に収まっていることがわかった。
「あっ、あの……ひぅっ」
恐る恐る口を開く『わたし』に、人々は一糸乱れぬ敬礼で応えた。突然の挙動に、『わたし』は思わず身を竦めてしまう。
しかし、落ち着いて目を凝らせば、固く引き締められた各々の表情の下には、好意とも猜疑ともつかない、複雑な色合いが秘められている……ように見えた。一団から進み出た、最上級と思われる士官が『わたし』の前に立つ。
さほど背は高くない。でも、踏み出すその一歩の挙動だけでも、無駄のない―『わたし』のよく知る人々と同じ―雰囲気を感じ取れる。
「日本皇国海軍所属、友永幸志郎中佐以下6名。迎えに参上した」
威厳、俊敏、洒脱……典型的な海軍軍人を形容するそうした言葉よりは『実直』という言葉がよく似合いそうな堅い口調。続いて、その士官は『わたし』に問うた。
「――貴艦の名を、伺えるだろうか」
その問いが、電流のように『わたし』の全身を駆け巡る。そう、『わたし』は――
胸元で握りしめた、その掌を抱いて。
「私は……羽黒。妙高型重巡洋艦四番艦、『羽黒』です」
私は、『わたし』の名前を告げる。ほおぉ、と人々から小さく漏れる感嘆の溜息も、この時ばかりは誇らしい。
――でも、私は何者なのだろう。このひとたちは、その答えを知っているのだろうか。
「ようこそ、『羽黒』。我が日本皇国海軍は、貴艦を歓迎する」
ぎこちなく交わされる、確かならざるものの名乗りと、武骨な敬礼。
それが、『わたしたち』の出会いだった。